ちょっと思うこと…つらつら

今週金曜からの展示会に向けて、あーでもない、こーでもないと絵を描き進めながら、でもなんだか集中できない時がある。
意識すると線は堅くなり、あまり何も考えないと無意味になる。
無意識に線と気持ちが一緒になった時に、すーっと誘導されるように描けるときがある。前髪の神様的な。
プロってきっとその境地に直ぐにシフトできる人なんだろうな、なんて思っている。
私は考えすぎる癖がある。ぐるぐるぐるぐる。答えは出たり出なかったり、また形を変えたり…。正解はあって無いようなもの。
そして迷う、素敵な絵を見て刺激され、素敵な人にあって刺激され、刺激されたまま何かに挑んでる間は、真似をしているだけ。初めはそれでも良いと思う。でもそれだと、きっと自分の中で消化していないから、消化不良になり、なんだか気持ち悪い。そうなったときにその刺激について再考察する。そんなことを考えているうちに、最初から、刺激は自分なりに噛み砕き、自分の箪笥の中へ入るように形を整えて収納しとけば良いと。そしてしばらくして、その箪笥から出して、やっと自分なりに使えるようになるのだと思う。
絵を描くこと、生きること、私が私なりに思っている信念は、どっちも同じ根っこから来ている。当たり前か。
絵描き、画家、イラストレーター、絵師、漫画家、アニメーター、などなど。
絵を描く人の呼び名は沢山あって、それぞれにちょっとずつ違うけれど、どれもそれになるための資格はなく、自分で名乗ってしまえば、そうであろという曖昧な世界。だからこそれぞれに試行錯誤があって、面白いのかも知れない。
勝手な持論だけど、基本を身につければ、絵はある程度誰でも描けると思っている。そこから何が違うのか…ぐっと来る絵って心の扉をノックされるような感覚がある。心の扉は色々あるのだけど、その1つをそっとノックしてくる感じ。決して無理矢理開けようとノックしてくるような感じではない。
じゃあ、心の扉をノックする絵って?
多分、その人の純粋で真摯な表現で描かれた絵かも知れない。描いている対象に魂が宿っているような絵。その魂はその人から与えられたものなのだけど、その絵には、その絵にしか持てない感情があり、「個」として存在感を放っている絵。でもそれは見る人によってその「個」は変化する柔軟性も持っている。ノックする心の扉は人によって様々な扉だと思う。色んな扉をそっとノックできる絵は、それこそ見る者を引きつけて止まない名画達なのかも。
我が強いと個性が強いのもちょっと違う気がするのです。ノックする絵を「個性」としたら、そこに描き手の「我」は「個性」ほどは入っていないと思うから。
もし「我」が「個性」よりも強い絵だと感じると、私は無関心になってしまうのです。もし自分の「我」にフォーカスして欲しいなら、絵という手段じゃなくても良いと思うからです。自分を客観的に知る、向き合うと言うことは、絵を描くことにも、生きて行くことにも大切なことだと思う。
「書は人なり」というけど、「絵も人なり」と思う。
品格を考えされられることが、多かった1ヶ月だったな、と振り返る。

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